2008.10.10 あれから2年
いよいよ3連休ですね。
私達はこれから西に向かう予定です。
ホントは急いで準備しないといけないのですが、どうしても書いておきたかったのです。

なので。
2年前の日のことを、忘れないために。
自分のために書いておこうと思いマス。

ほとんど自己満足記事です。
今回はウケ狙いなしです。
おまけに長文です。

2年前、白馬岳でたくさんの方がなく亡くなられた翌日。
爆弾低気圧も過ぎ去り、2回目のテント山行に出かけた。

今回のコースは上高地~涸沢~(あわよくば奥穂高へ)~上高地に。
まだまだ慣れないテント山行ゆえにどのようにも停滞できるルートを選んだ。
おそらく、前日の降雪により頂上は無理だろうと思っていた。
無理は禁物、そう言い聞かせていたつもりだった。

いざ涸沢へやってきて、秋山のすごさを目の当たりにした。
涸沢より上は、真っ白な冬の世界だったのだ。さらに、強風により飛ばされたらしいテントも目に入る。
キレイとかそんな余裕も無く、真っ先に『聞いてないよ・・・』とつぶやいた。

多少は寒いだろうと思っていたその日の夜は、氷点下を越える予想以上の寒さ。
とても寒くて熟睡できたものではなかった。

翌朝。
寒さの中のカールの日の出に感動するも、あまりの寒さから頂上へは行かず下山することを決意。
どうせならと、涸沢の中をうろうろしたりしてのんびり10時過ぎに出発。
その頃には暑いくらいの日差しになり動きやすくなってきた。
その寒暖の差で体力が削られていたことにも気がつかずに。

ただ上高地に戻るだけではつまらないと、パノラマコースから下山することにした。
日陰にはところどころに雪が残り、思わぬところに足を取られやすかった。
これが更なる疲労になっていたのだろう。
途中で注意力が下がってきたなと自覚したのは、手に引っ掛けていると思っていたストックがするりと谷に落ちた時。

穂高の山並みを眺めながら屏風ノコルに着く。
ここへ着く頃には気温も上がって、前日のような寒さで凍えることも無く快適な山歩きのように思えた。
それでも1時間以上は歩いたのでここで休憩し、穂高の山々を見納めてから出発した。

ここからは下りになり、やや靴紐が緩いかな?と思う程度であったのだが岩場でもないしとそのまま歩き出した。

途中で、単独の女性を追い抜き、木をまたいで行こうとしたその時。

木の上で滑り、思わず木を蹴ってしまった。
その先には足場は無く、そのまま30mほど滑落した。

どうやら背中から落ちたらしく後ろでんぐり返りを3回くらいし、顔をその回数だけ擦りながら落ちていた。転がっている瞬間思っていたのは、『これ以上加速がついたら止まれなくなる!』だけだった。

どうにか止まったものの、転がっている間は呼吸までも止まっていたせいか肩で息をついた。
呼吸が収まってから、口の中に広がっていた血を吐き出し、とりあえず鼻血をタオルで拭き、左手が動かないことを確認した。
そして手にしていたはずのストックが無いことに気づく。

その後、上で心配しているであろう夫に『大丈夫!危ないから降りてこないで!』と声をかけた。

左手が動かないと言うことは骨折しているのだろう。
痛いはずなのだが、どちらかと言うと顔の擦り傷の方が痛かった。
何にしても応急処置をと思い、ストックを無くしてしまったのでザックからテントポールを取り出そうとしたが、ポールを手に結ぶことが出来ず固定は断念した。

すると、上から一人の男性が降りてきてくれた。
わざわざ様子を見に降りてきてくれたことに感謝と申し訳なさを感じ、とにかく上まで戻ることにした。
このFさんと仰る男性のサポートのお陰で無事に登山道まで戻ったあとは、Fさんに別れを告げ夫が頼んだ救助を待つことにした。

救助はIさんという女性に小屋に着いたら救助を呼んで欲しいと頼んだのでどんなに早くても数時間はかかる。おそらく救助は小屋の方が担架なりを持ってきてくれるのだろう。
救助の時間では、夫は暗がりの中を降りることになる。となれば、下手をすると2人とも怪我をする羽目になりかねないと思った。
そこで、4時を回ろうかという頃に夫だけ先に降りてもらおうと決めた。
救助が来るならば途中ですれ違えるだろうし、状況も説明してもらえると思ったのだ。
万一、救助が来なければ夫が小屋で伝えればどうにかなる。
自分はテント装備を駆使すれば万一でも一夜は明かせると踏んだ。
そう思っての判断だった。

『じゃあ、行くよ』
そういう夫を見送ろうとしていた時、バラバラバラとヘリコプターの音が聞こえてきた。
この時は、ああ穂高でも滑落があったのかなと思っていた。
すると、ヘリコプターは明らかに私達のところにやってくるではないか。

とあるブログで、ヘリコプターに自分の存在を知らせるために目立つもの(雨具など)を振って知らせたというのをほとんど直感で思い出したのだが、その前に『ああ、大変なことをしてしまった』と言う思いの方が強かった。

申し訳ない気持ちが先に立ちながらも、夫と共に雨具を振りながら居場所を知らせ、長野県警のヘリこちらに向かってきた時は本当に助かったのだと心から安堵した。

そして、全てのことが少しでもタイミングがずれていたらこんな風に救助されなかったかもしれないという偶然に感謝せずにいられなかった。


隊員の方が降りてこられ、時間が遅いので本来ならばNGだが夫もヘリに同乗させていただけることになった。
ヘリに乗っている間に警察への連絡の指示などをいただいた。
ヘリに収容されてからA病院まではわずか10分強の道のりであった。

ヘリから病院に着いた後は怒涛のように治療が開始された。採血・注射・点滴にいたっては早いもの順とでもいうように場所を見つけては針を刺していく。

骨折の治療以外にも、右膝がパックリと裂けていたのでこちらも縫合してもらう。
縫合の際に、(縫いにくいので)『ちょっと肉を切ってもいいかな?脂肪なんだけど』
といわれ、『脂肪』に反応した私は即座に『いくらでも切って下さい』と言っていた。

治療が終了した頃には日付が変わってしまっていた。

私が治療をしている間に夫が警察への連絡、入院の手続きなど色々と動いてくれていた。
病室で顔を合わせた時には随分と疲れていたようだった。


2日後、退院して地元の病院へ転院したのだが、そこでは膝の傷以外に靭帯も伸びているのではという疑いをかけられた為、約10日ほど入院することになった。

私の怪我を知った同僚達にはかなりの衝撃だったらしく、復帰のメドが立たないとまで噂されていたらしい。

復帰後は、『山空花はこき使っても死ななそうだね』とか『やはりヘリは高額なのか?』などといった話で随分盛り上がった。
冗談にしながらも、心配してくれていたことが身に沁みた。

直接の上司からは、『次は勘弁してくれ』ときつくお小言を言われ完治するまでの数ヶ月はさすがに反論できなかった。

この怪我によってたくさんの方に迷惑をかけたが、様々な人々に見えないところで助けられていることを改めて思い知らされたと思う。
不謹慎な言い方だが、怪我の功名といっても良いのかもしれない。


怪我の後、山登りを止めようとは思わなかった。
周りはまだやるのか!?という目で見ていたが。

この怪我に至るまでにはいくつかの『油断』が潜んでいることは明白だった。
これらの一つ一つを確実に潰していけば、安全な登山は出来ると思ったからだった。


いま、あれから2年が経つ。
少しずつではあるが、あのときに足りないものを補いながらの2年だったと確信できる。
正直、木の上に乗るときの恐怖を完全に払拭したとは言い切れない。

もちろん、足りないものはまだまだある。
それは順次努力していけばよいと思う。
ただ、『油断』だけは常に厳しく持つように心がけていたい。

でもいつか、それが『慢心』に変わる時が来るかもしれない。
それをいつでも戒められるように、このことを今一度しっかりと思い出しておきたいと思う。

助けられた命への感謝の気持ちと共に。

そしていつか、自分のやった事の重大さを忘れるでもなく引きずるでもなく抱えていけたらいいと思う。
今はまだ、冗談やネタでしか語れないけれど。


長文にお付き合い頂き、ありがとうございました。
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